読書ノート

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読書メモ『本当に頭がいい人のメンタル習慣100 齋藤孝〈第一章①〉』5月21日

 

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このブログは、本を読みながら思ったことをそのままメモしていく、個人的な備忘録です。

 

第一章 ストレスフリーを保つメンタル週間

 

sanft@san_o_clock

 

①「苦痛を感じたら、執着を素直に見つめる。」

ブッダは、人間に苦痛をもたらすのは外的要因ではなく、人間自身の心の中にある執着であると説きました。

考えても仕方のないことを考えてしまうのは、その仕事に対して何らかの執着やこだわり、依存といった感情があるからです。」

 

(コードが全てに先行するという前提はあるが)執着が悩みの根本であるというのは、ほんとうにそう。このページでは「プレゼンに失敗し、自己反省をしたが、それでも心がモヤモヤしたまま」という人の例が書いてある。その人の執着はたとえば「上司や同僚への嫉妬、不満だった」ということだそうである。

こういった執着は素直に見つめるのが恥ずかしく、または苦しく、難しいのだけれど、意外と根本的な解決にはそういった本音の執着を直視して、素直にならざるを得ないことが多いように思う。

たとえば、個人的なさいきんの悩みは「絵を描きたいと思えない」というもの。この悩みにおける執着は「絵の世界で結果を残せないのは恥だ」というものがひとつにある(昔の知人には有名な若手アニメーターやイラストレーターや映像作家が多く、気が引けるのだ)。しかし、絵を描いていない、というより描けない時期が長かった(パソコンやデジタル作画の環境が完成したのは20歳を超えたあとだった)のだし、言い訳じみているけれど、いま思うと環境的に流石に仕方ないと思う。それらが引き金になって、単にプライド的に元気や自信を失っている、または高めようと思えないだけなのだろう。

ほかにも「好きなひとがイラストレーターだから、絵をプロ並みに描けていないといけない」という執着もある。両者とも通じて、要は、自分のありのままの実力を認められず、適切な成長の段階を踏めないまま、あまりに上だけが見えているから苦しく、筆が進まない。絵が描けないことに関するこれらの執着から分かったのは、自己充実感の薄さである。

成長の仕方や速度などひとそれぞれである。そもそも、クリエイターとして大成したり、なにかで成果を上げることが、誰か他人への存在証明や復讐なぞになってはいないか。もしそうなっているとしたら、他人へのなんらかの相対的価値の証明によってでしか自己肯定感が満たせない、低すぎる自己肯定感、生き方の不自由さの方が、結果を出せないことよりもはるかに問題だ。自己充実度の低さという弱点は、哲学や視点の浅さに繋がり、まさしく絵の下手さ、ひいては描きたくなさにも直結していくだろう。

ということで、苦痛や悩みを感じたら、どんな執着によるものか考えてみよう

 

②(執着は消すべきなのか?)

この項で著者は「執着を捨てる」という方法を一例に挙げている。

しかし、このへんはぼくが長年付き合いのある気功の先生の考え方に基づくと、そんな単純な方法で簡単に整理できるわけもなかろう、と思う。

たとえば、クリエイターにとって一般論的に大切にされていることのひとつに「欲への執着」がある。どれだけ苦しくても、ときにハングリー精神とも似通う、こういったクリエイターとしてのドロドロした欲への執着を捨ててしまっては、クリエイターの少しでも遠くに行きたい、上達したいという鋭敏な感性は成り立たない。(と、一般論的には言われることが多いはずである。)背伸びすることの若々しさ、憧憬に手を伸ばすことこそが強さや美しさを生むのだ、という考え方は根強い。

素人考えだが「執着」には複数の解決方法がある。

ひとつめは、執着を捨てること。(これは著者の方法である。)

ふたつめは、執着を叶えること(欲を叶える)。これは一般論的な、クリエイターが持つべきに相応しいと言われているハングリー精神に基づくものである。いまはまだ、叶わないままで飢え続けろ!ということだ。これも有力である。

そしてみっつめは、執着を深く内観すること(執着の対象を変えること)である。

ほんとうにそれは、執着する(欲する)べきものか?」「なぜ執着しているのか?

ということを、嘘偽りなく自分に問答するのである。その中で、これはほんとうに欲しいものではなかったと気づいたら「執着の対象を変える」という方法も取るべきだろう。

たとえば先の「絵が描きたくない」という悩みであれば、安直だが絵を描く上での優先事項を「評価」→「楽しさ(充実感)」に変えるという方向転換が出来る。(ただし口で言うほど、実際の無意識的な評価優先思考の癖を変えるのは簡単ではない。)いかに自己充実、自己納得が出来るかを執着するようになっていく、ということだ。この執着の方向転換は、はじめに、の項にあった「(シンプルに)幸福や楽しさ、好きなものを享受して生きる」という考え方にも繋がる。

ちなみに、(欲するものや方向転換の案が)なにも浮かばないほどに改善案が出てこないのであれば、自分の目的(やりたいこと)が全く見えていないか、根本的にその業界や分野が向いていないということなのだと思う。目的意識と、健康的な執着(欲求)は基本的に、クリエイティブな分野では才能とイコールの気がしている。

執着は、捨てるか、飢えるか、再考すること。

 

③ (無意識的な、問題の場合分けの上手さ。)

「なにかしらネガティブな感情が生まれるような問題に直面したときに陥りがちなのが、『感情を混同する』という落とし穴です。種類が異なる感情をあれもこれも混ぜて一緒くたにすることで、本質的な問題に対する感情の整理や対処法を見失ってしまうことが少なくありません。

「英語ではコントロールの可否を『out of control』『under control』と表現します。outなのかunderなのかを瞬時に分ける訓練をしましょう。

 

本質的な問題に対する感情の整理や対処法を見失うこと、ほんとうによくある。

とくにこれは、ぼくが発達障害だからということが大きいと思うのだが、もともとなにを考えていたのか、なんの目的のために行動していたのかを、痴呆のようによく忘れてしまうのだ。

(たとえば、全ての因縁果報を自然と動物と神のために、というのをこの頃はよく意識している。しかし、こうしてブログを書いているいまにも、作業に没頭してそのことを忘れてしまっている。ぼくが勉強をしたり本を読む理由、つまり因縁は、自己コントロール力と能力を高めて、動物自然保護事業を説得力、影響力の限りなく大きなものにしたい、というものである。こうして読書メモをつけている理由は、仕事力アップによる後々の動物自然保護事業の影響力向上に期待してのことだ。忘れないように。)

とくにそういった混同しがちな「本質的問題に関わる感情かどうか?」を整理するうえで、代表例として著者に挙げられたのが「out of control」「under control」というものである。要は、自分のちからでどうにか出来ないことは、気にしないということである。その代わりに、自分のちからで出来ることには、全力を尽くす。場合分けとして、この二者のいずれかを認識する考え方は非常に分かりやすそうである。

ところで、個人的に思うのだけれど、こういった場合分けはこうして意識的に口に出して行える範囲のものよりも、とくにハイスペ系の人材に関しては「無意識的に場合分けする能力(の高さ)」が、非常に重要そうに思うのである。

世の中には、意識的にout of control、under controlを分けることすらおぼつかない、ぼくのようなひともいるが、基本的にハイスペ系のひとはそうではない。彼らは漏れなく「目的に対して(シンプルに)取り合うべきことは全力で取り合い、それ以外は無視する」ということに関して、無意識に場合分けする精度と速度が、非常に高いのである。

それはたとえば、

"家事をしている最中に泣き出した赤ちゃんの声を聞いた熟練の母親が、いままさに今晩の夕飯について考えながらも、いま干している洗濯物を先に切り上げるか、それよりも先に赤ちゃんの(経験則上オムツが汚れたとかですらなく、十中八九はただ理由もわからず泣いているのであろう、と予測はつくけれど)様子を見にいくべきか、という瞬時の判断を、意識的でなく無意識にものの数秒で完了させ、洗濯物を半分で切り上げて(取りに来たことを思い出した印鑑をついでに持って)赤ちゃんの様子を見にいく……"

という、無意識による非常に秩序だった(水路づけられた)場合分けや取捨選択のような感じである。口だけ単細胞の低スペ男には、とうてい出来ない芸当である。

この例の場合、赤ちゃんの世話と家事という、暮らしの中央に問答無用で置かれている規則と圧があるから、すばやく秩序だった選択を無意識に行う、ということが出来るのだとろうと思う。いや、時代的に下手なことは言えないが。

 

要は、ハイスペ系のひとたちは、それくらい価値基準と責任がしっかりしているのだ。彼らは、人間の意志や行動を決定するところのバイナリコードのようなものが非常にシンプル化されている。それゆえに、無意識の場合分けや取捨選択に容量を割くことが出来、行動に無駄がなく、速く、目的に強く焦点が合い、成果が上がるのだ。

将棋棋士や最新のソフトも、際限なく手を深く読ませるのではなく、読みの枝切り(選択肢を減らす=シンプル化)をすることによって、より深く読むということをしているそうである。

以上の考察からしてみても、やはりシンプルさは強さ、もしくは速さ、能力の高さに直結しているように改めて思わされるのである。シンプルさは強さ。選択の深さは、捨てること(シンプル化)の上手さにあるのだろう。

本質的問題について(感情等を)整理し、シンプル化する。

その際に、あらたなスートの仕組み(価値基準)に沿った無意識の判断が出来るよう、ひたすら意識して訓練していこう。

 

まとめ

 

悩みに関する執着はまず、しっかり恥を捨てて直視し、素直に認める。

そのあとは目的に応じて執着を捨てるなり、叶えるなり、変えるなりすればよい。

また人の(メンタル等の)強さは、無意識の場合分け(シンプル化や枝切り)の上手さにある。

 

 

読書メモ『本当に頭がいい人のメンタル習慣100 齋藤孝〈はじめに〉』5月20日

 

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このブログは、本を読みながら思ったことをそのままメモしていく個人的な備忘録です。

 

はじめに

 

みみみ@heppokomann



 

①「頭の良いひとは、(これくらい)シンプルにものごとを考えている。」

「嫌な気持ちを生むものからは距離を取る。シンプルな方法ですが、メンタルを守るためには大変有効な手段です。頭の良いひとというのは、このくらいシンプルにものを考え生きているのではないでしょうか。

本書は、『頭がいい人』がぶれないメンタルを保つために、日ごろ何をどのように捉え実践しているのか。それを考えていくための一冊です。」

 

この導入の前に、特段根拠のあるわけでもない、一般的に共感の得やすい一般論(繊細な人でメンタルの不調が増えたのは、SNSで承認欲求を手軽に満たせることに原因がある、論)をさらりと述べていたが「ひとによるくない?」と思った。

ただ、そのあとに「頭の良いひとというのは、このくらいシンプルにものを考え生きているのではないでしょうか。」というくだりを読み、なるほど、波風を立てないよう、限りなくシンプルで(一般論過ぎて)取っ掛かりのない、あるある売れ線の一般書の導入文を読んだあとだったから妙に信憑性があり、「たしかに」と思った。(悪口のつもりはない。)

共感を得やすい文章を書くひとは、得てしてこういう、削ぎ落としすぎてなんの波風も立たない、もしくは、余計な効果を生まないよう削ぎ落とした文章を書くのがうまい。

たしかに、現代的に頭がよいと言われるひとは、こういう「シンプルであること(余計なことをしない)ができるひと」だな、と思う。(悪口のつもりはない。)

頭の良いひとなら、こんな脇道に逸れるような、シンプルさのかけらもない小面倒な思考をすることもないだろう。頭のよさとは、シンプルさと直結しているのだ。

 

②「自分が感じる幸福や楽しさ、好きなものを享受して生きよう。」

「シンプルに生きること」=「自分が感じる幸福に忠実に生きること」。

「楽しいことを率先して行う、好きなものを食べて自分を満たす、疲れたら寝る。

それらと同じくらいかんたんなことを選択して生きている。

好きなことを3つもできた日が嫌な日なはずがありません。複雑にものを考えずに、好きなものを享受できれば、メンタルが壊れることはないのです。

 

シンプルに生きる。つまり、幸福に忠実に生きる。楽しいことを率先して行う。自分を満たす。疲れたら寝る。どれも自分の場合は、余計なことばかり考えてしまう。この頃は、幸福や楽しいことを感じる感度が衰えて、幸福や楽しさに基づいて生きていないと思った。幸福や楽しさに忠実に生きるなんて、考えたこともなかった。

幸福や楽しさへの感度は常に高くあったほうが、幸福で楽しいもの(暮らし、仕事)を作ることができるだろうし、現実的に作業スピード、成長速度も早まるだろう。(ステータスで言う "回復力" "すばやさ" 。)

簡単に(実行可能なようにひとことで)まとめると、「好きなものに囲まれる、それを(臆せず)選択し続ける暮らし」だろうか。それは、こうして気軽に一文に書いて想像してみるだけでも、思ったより勇気の必要な行動に思える。著者の選択の軽やかさは素敵だと感じる。

シンプルに幸福に忠実に、好きなものを享受して生きてみよう。勇気を持って。

 

 

③(暮らしを向上させたい欲望・美意識・勇気がない。)

"習慣"

 

習慣の身につけかたがいまだによくわかっていない。

習慣の軸、幹になる〈目的〉が曖昧だから習慣が少しずつブレるのだろう、とさいきんは考えていたが、それ以前に、「暮らしを向上させたい」という健康な欲望(美意識)がないから、というのが大きい気がする。

ぼくには「習慣を身につけたい」=「暮らしの質を向上させたい」という前向きな(幸福や楽しさを選択する)欲望や、美意識や、勇気がないのだ。気功の内観的に言えば、幸福から(無意識に)乖離したいのである。習慣を身につけねば、と口では言いながら、結局はそちら(幸福になど、さほどなりたくない!)が見えない本音なのだ。

筋トレなんかが習慣づかないのも、結局はそこである。いい体やモテなど、さほど欲しくないのである。それはひとえに、幸福になることに対する欲望と、勇気のなさによる。

(ただ、「朝イチに神棚や太陽を拝む」くらいのことは面倒くさがらずやれよ、と自分で思った。いただきます、ごちそうさま、くらい当然で然るべき習慣。)

暮らしの質を向上させたい、という健全な欲望(美意識)を持とう。そうでないとなにもはじまらない。そもそも、高次元な欲望は罪にはならないのだ。

 

④「環境と習慣が行動を変え、行動が性格を変えるよね。」

「30代、40代と歳を重ねるにしたがって軽やかな性格になったという自覚があるのですが、それは習慣、行動を変えることで性格も変わり、明るい性格を選択できるようになったからだと思います

大学の教え子たちを見ていても、人見知りだった学生が社会人になったら相応の社会性をともなっていたり、引っ込み思案だった学生が戸惑うことなく人前で自分の意見を発言できるようになっていたりと、環境が変わり習慣が変わったことで性格までも変化しているようです

習慣を変えるといっても、難しいことではありません。教え子たちも、社会人になったからあいさつと連絡をしっかりしよう、その程度の習慣の変化だったと思います。

でも、結果として性格が変わった。習慣は行動や暮らしを変えて、さらに人の心にまで作用するのです。

 

環境や習慣から変わって、逆に、性格のほうが変わっていく

なりたい自分に少しずつなろう、ではなく、なりたい自分にいま「なる(なってみる)」というような逆説的なアプローチだが、自己啓発好きな昔の知人のブログや自己啓発本でよく目にする論だった。わりと定番の方法らしい。

ただし、自分の場合は「こうなりたい」がとくにないので、そこから(心から望める目的の吟味が先決)である。

理想の自分の行動を先に想像し、先に実際の行動をしてみて、いずれ自分がそれに合うように変わっていく。コンフォートゾーンを超えた人間の適応力。それは例のように、先に環境に飛び込む、というような方法でもよい。未来の自分は大変だが。(筆者の例えは、その変化のストレスを感じつつも耐えながらコンフォートゾーンを抜け続けるだとか、もしくは引き寄せの法則的な実践方法に通じるアプローチでもある。苫米地先生の本をちゃんと読んでみようか。)

とはいえ、ホロゾフィー的に言えば、出生コードのデコードを抜きにしてそういった方法を取ることは、どこか気休めにしかならないようにも思う。(自己啓発好きが、単なる自己啓発好きのままで終わるゆえんである。)

出生コードを読んで明確な目的を持った上での自己改革(自己浄化、自己実現)ならば、悪くはないか。まずはなににしろ、出生コードを読んで、目的を深く理解するべきである。自己啓発に失敗する原因の多くは、自己納得がいっていないことだという経験上の体感がある

性格を変えたいなら、習慣と行動から先に変える、という方法もある。

 

まとめ

 

シンプルに生きよう。

そのシンプルさの根本は、個人的な願いだけれど、不屈の利他心でありたいと思う。個人的な幸福だけを求める生き方は自分には向いていない気がしている。

しかし、だからこそこの著者くらい、自分を満たすことが大切なのだと思う。この本は、そのへんの生き方の癖(欲望からの乖離)を見つめ直すきっかけになればいいな、と期待している。